第7章
最初の壁
「正式に話を聞きたい。」
その一通のメールは、未来設計室の空気を変えた。
送り主は、世界有数の宇宙研究機関で月面開発計画を担当する責任者だった。
名前を見た瞬間、水野が声を上げる。
「本物ですか?」
白石は静かにうなずく。
「本物です。」
「ようやく、議論のスタートラインに立てました。」
しかし、その表情は喜びよりも緊張の方が大きかった。
国際会議
一か月後。
スイス・ジュネーブ。
世界の宇宙開発関係者が集まる非公開会議。
参加者は約四十名。
宇宙機関。
大学。
企業。
国際機関。
未来設計室も、その一角に席を用意されていた。
悠真は会場を見回した。
世界中の第一線で活躍する研究者ばかりである。
「こんな場所に、自分がいていいのだろうか……。」
白石は悠真の肩を軽く叩いた。
「安心してください。」
「今日は、答えを出す会議ではありません。」
「問いを投げかける会議です。」
プレゼンテーション
スクリーンには一枚の写真が映る。
灰色の月面。
そして、その下に一文。
『人類が安心して暮らせる月を、先につくる。』
白石は静かに話し始めた。
「私たちは、新しい宇宙開発競争を提案するために来たのではありません。」
「競争ではなく、協力です。」
「人間を先に送る計画ではなく、人間を迎える準備を先に整える計画です。」
会場は静まり返っていた。
最初の反論
発表が終わると、一人の男性が立ち上がった。
アメリカの宇宙政策研究者だった。
「非常に興味深い提案です。」
「しかし、現実的ではありません。」
会場の空気が少し変わる。
「なぜですか。」
白石が尋ねる。
男性は答えた。
「第一に、費用です。」
「第二に、国家間の利害です。」
「第三に、安全保障です。」
「どの国がAIを管理するのでしょう。」
「もし、そのAIが軍事利用されたら?」
「もし、一国が技術を独占したら?」
「もし、月面資源を占有したら?」
次々と質問が飛ぶ。
悠真は初めて気づいた。
技術の問題ではない。
人間の問題なのだ。
白石の答え
白石は少しも慌てなかった。
「皆さん。」
「私は技術を提案しているのではありません。」
「ルールを提案しています。」
会場が静まる。
「PROJECT EDENには、一つだけ原則があります。」
白石はスライドを切り替えた。
そこには、大きく一文だけ書かれている。
『月は、人類共通の未来である。』
「参加する企業も。」
「参加する国も。」
「参加する研究者も。」
「この原則を守ること。」
「利益は否定しません。」
「知的財産も否定しません。」
「しかし。」
「月面都市そのものは、誰のものにもならない。」
会場にざわめきが広がった。
思いがけない賛同
その時、一人の女性がゆっくり立ち上がった。
ヨーロッパの宇宙法研究者だった。
「私は賛成です。」
全員が振り向く。
「宇宙条約では、宇宙空間は特定の国家が領有できないという考え方が基本です。」
「しかし、それを実際の都市建設まで具体化した提案はありませんでした。」
彼女は白石を見る。
「あなた方は技術ではなく、文明のルールを提案している。」
「それが、この計画の価値なのですね。」
白石は深くうなずいた。
「ありがとうございます。」
「まさに、それを伝えたかったのです。」
悠真の一言
質疑応答の最後。
司会者が尋ねた。
「他に発言はありますか。」
悠真は迷った。
自分が話すべきではない。
そう思った。
しかし、自然と手が挙がっていた。
「私はAI研究者です。」
「だからこそ思います。」
会場が静まり返る。
「AIは、人間の代わりになるために生まれたのではありません。」
「人間を危険から守るために進化してきました。」
「災害現場も。」
「深海も。」
「原子力施設も。」
「そして月も。」
「危険な最前線を、人間ではなくAIが担う。」
「それは、人間の価値を下げることではありません。」
「人間の命を、もっと大切にするということです。」
誰も言葉を発しなかった。
やがて、一人が拍手を始める。
その拍手は、少しずつ会場全体へ広がっていった。
会議の後
ホテルへ戻る道。
ジュネーブ湖には夕日が映っていた。
悠真は歩きながら白石に尋ねる。
「今日で世界は変わるでしょうか。」
白石は笑って首を振った。
「いいえ。」
「今日変わったのは、世界ではありません。」
「世界を変えようとする仲間が、一人増えただけです。」
少し間を置いて続ける。
「文明は、いつも少人数から始まります。」
悠真は湖面を見つめた。
今日の拍手は小さかった。
しかし、その音は未来へ向かう第一歩のように聞こえた。
第8章へ
帰国の飛行機に乗る直前、白石の端末に新しいメッセージが届く。
差出人は、日本のある大手建設会社の技術担当役員だった。
本文は一行だけ。
「地下都市の話を、詳しく聞かせてください。」
白石は静かに画面を閉じた。
「いよいよ始まる。」
「次は、夢ではなく設計図の話です。」


コメント